2019年12月25日水曜日

中村哲さんの死を悼む



    石 垣 義 昭


中村哲さんはアフガニスタンの極めて複雑な政治的情勢の下にあって、命の危険に身をさらしながら用水路の建設に取り組んできた。ペシャワール会のメンバーの一人、伊藤和也さんが武装集団に殺害された時(2008年)、日本人スタッフをすべて帰し、仲間を失った痛恨の哀しみを胸に自分一人残ってアフガンの人と力を合わせてきた。その中村哲さんが銃弾に倒れた。
佐高信氏は中村哲さんを悼む文章の冒頭で「日本国憲法が撃たれた」の見出しを掲げ、次のように書いている。
《中村さんはいつも、自衛隊派遣が自分たちの活動を邪魔していると言っていた。アフガニスタンで井戸を掘り、用水路を拓くことで築いた信頼関係が、自衛隊の派遣で崩されるからだ。私は、そんな中村さんを、「歩く日本国憲法」と言っていた。平和憲法の下でこそ、日本人であることが安全保障になるからだ。その日本国憲法が撃たれた今、なおさら「平和憲法」が必要だと強く思う。》
この指摘は核心をついている。医者としてアフガニスタンに渡った(1984年)中村哲さんは、干ばつに苦しむ人びとを目の当たりにした。そして、医者以上に水を必要としている人びとの現実を知った。そこでは井戸を掘ることが急務だった。しかし、アフガニスタンの干ばつの激しさは、千数百の井戸を掘っても追いつかない厳しいものだった。そこで、雪解け水が豊富に流れる川の水を誘導する、用水路を拓くことを思いつく。しかし、これも一筋縄ではいかない難事業だった。
投入する石が流されてしまう失敗を、幾度も重ねながらアフガンの人々との共同の作業が続いた。故郷の人が築いた昔の堤防の技術に学び、現地の人の石積みの技術を生かし、彼の志を後押しするペシャワール会に支えられて、用水路を少しずつ延ばしていった。用水路のそばには、街路樹が育ち、その周りに緑の大地が生まれた。農作業が可能になった。その大地に、干ばつに追われた農民たちが徐々に帰ってきた。3年前のNHKの報道でその数は65万人と聞いた。
アフガンの大地に再び畑が作られ、人々の暮らしが再建され始めたのだ。学校が作られ、イスラムの教会(モスク)が作られた。人々の心をつなぐ中村哲さんの努力は確実に実を結んでいった。そのリアルタイムの映像と経過を帰国する度に日本の各地で報告した。集まった人たちに支援を訴え、ペシャワール会へのカンパを募った。募金は私が報告を聞いた数年前で30億円に達していた。まさに彼の志に共感する人びとの浄財であった。
日本国憲法の前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有することを確認する。」とある。中村哲さんはこの理念を実践していたのだった。彼は「目の前に困っている人がいれば、誰でもどうしたのですか」と声を掛けるでしょうと言っている。これは日本国憲法の精神である。しかし、その逆を行く人もいる。日本の軍事費は今年5,3兆円に達している。トランプ氏はもっと増額せよと言っている。武力にしか頼れないこういう人たちの心が中村哲さんを銃弾にさらしたのである。私はそう思っている。